【 こもりうた 】
眼前を埋め尽くす草原の中、少年は誰かに後ろから抱かれながら太い幹を持つ巨木にもたれている。
少年は木漏れ日の淡い光を見上げながら、どこからともなく聞こえてくる低い旋律に耳を傾けていた。
それは歌と言うには詩が無く、確かな譜があるのか疑問なほど不安定な音。
決して綺麗とはいえない、とぎれとぎれの歌なのに、少年にはとても心地よい音に聞こえていた。
ふと、自分はこの歌を紡ぐ低い声が好きなのだと少年は気付く。
低く、暖かく、優しいこの声が好きなのだ、と。
この声の主は一体誰だろう。
父の声にしては高い。
傍仕えのものでもない気がする。
では一体誰なのだろう。
少年は少し身を乗り出して、自分を後ろから抱きしめている誰かを振り返り見る。
木漏れ日のせいで影が出来、顔がはっきりとしない。
けれど、光に照らされた紺色の髪だけは酷く目に焼き付く。
かすかに動いている口元に、この歌声の主が彼なのだと分かった。
貴方は誰?
その歌は何?
少年の問いに、彼はふと旋律を止めて――
+ + + + +
ふいに戻ってきた意識に、マルスは閉じていたまぶたをゆっくりと上げた。
ぼやける視界には、ソファーで仰向けになっている自分の身体と、開いたままの本を掴んでいる手が映っている。
ついと視線だけを真上に向けると、一人の青年の顔を下から見上げる位置にいるんだと気付いた。
アイクだ、と寝ぼけた脳が認識するのと同時に、そういえば膝を借りて眠りについたのを思い出す。
睡魔と覚醒の境目を漂いながら、マルスはやっと先ほどの草原での光景が夢だったんだと気付いた。
それにしては、ずいぶんとあの歌声だけははっきりと聞こえていたように思える。
自分の知っているものの中には、あの歌は無かったはずだ。
(誰の歌なんだろう)
まだすっきりとしない頭で考え始めた時、またあの声が夢と同じ旋律を歌い始めた。
ふと、目に映るアイクの唇が歌に合わせて動いているのが分かった。
(あぁ、彼が歌っていたんだ)
どおりで心地よいと感じるわけだ。
愛しい人が紡ぐ歌なのだから当然だ。
アイクはマルスが目覚めているのに気付いておらず、静かに、ゆっくりと歌い続けている。
手にしている紙は戦績表だろうか。
それを見つめたまま、穏やかな譜をたどたどしく紡いでいく。
「……子守歌か何かかい?」
どれぐらい聞いていただろうか。
しばらく歌に包まれていたマルスはそう静かに問いかける。
突然の声とマルスが起きていた事に驚いたのか、アイクは夢の中の人と同じように旋律を止めた。
「……いつからだ?」
ゆっくりと顔を下に向け、マルスと視線を合わせてアイクは聞いた。
「しばらく聞いていたよ」
おそらく起きてどれぐらい歌を聞いていたのかということだろう。
いたずら気味に笑みを浮かべながらマルスが答えると、アイクは気まずそうに手にしていた紙で顔を隠してしまった。
耳が赤く見えたのは、多分気のせいではないだろう。
「聞くな……」
「アイクが勝手に歌っていたんじゃないか」
そう言うと、紙の向こうから大きなため息が聞こえてきた。
多分言い返す言葉が見つからないのだろう。
屈強と言われる彼が、赤い顔を懸命に隠しているのが可愛く見えて、マルスはたまらずにくすくすと笑ってしまった。
「……っふ、ふふふ」
「マルス……」
「ふっ、あはは! ごめんごめん」
なんて笑いながら言ってもちっとも謝っているようには見えないわけで。
アイクは顔を覆っていた紙をマルスが手にしていた本の上に放り、空いた手でその青い髪をくしゃくしゃに撫で回した。
「うっわ! やめろよ、アイクッ」
「やかましい、人を笑うからだ」
そんなアイクもまた、してやったりな笑顔を浮かべている。
しばらくの間、お互いに笑いながらマルスは必死にアイクの手の邪魔をし、アイクはそんなマルスの手を抑えながら青い髪を乱していったり。
「あーもー、終わり!」
ひとしきり騒いだところで、マルスはアイクの両手を掴み、それに体重をかけながら身を起こした。
「笑いすぎでおなか痛いよ」
「そうだな」
お互いにまぶたのふちにたまった涙を拭いながら、マルスはソファーに座り直して背もたれに体重をかける。
「……それでさ、あれは何の歌?」
一息ついたところで、マルスは再びアイクに問い掛けた。
「綺麗な歌だね」
そう言うと、アイクは少し照れたように笑い「そうか?」と答える。
「……母さんの歌だ」
少し間を空けて、彼はそう言った。
「アイクの母上の?」
「あぁ、子守歌だ」
「そうなんだ……」
「ガキの頃のことはあんまり覚えてないんだが、これだけは耳に残っていてな」
「へぇ〜」
いいなぁと、マルスは言った。
自分にはそういう「子守歌」などを歌ってもらった記憶がないからだ。
「ねぇ、また歌ってよ」
「……勘弁してくれ」
「えぇ〜?」
不満そうに言うと、アイクは照れもあるのだろうか、そっぽを向いてしまった。
「俺より妹の方が上手い」
「僕はキミの妹君には会えないでしょ?」
「……それはそうだとして。俺のなんか上手くないだろうが」
「分からないよ、キミの母上の歌を直接聞いたわけじゃないんだし」
「それはそうだがな……」
「ダメかな?」
駄目押しだとばかりに身を乗り出してみる。
それでもアイクは視線を逸らして首を振ってしまう。
けれどそれで引き下がるマルスではない。
「うーん……じゃあもう一回寝るから!」
「は?」
「寝るからさ。寝たら歌ってよ」
「寝たらって……子守歌は眠ってもらうために歌うもんじゃないのか」
「そうだけど。起きてたらアイクは歌ってはくれないだろ?」
「……出来れば歌いたくないな」
「でしょ? だから僕はまた寝る」
「ぶっちゃけお前、一時間以上俺の膝を枕にして寝ていたが、まだ寝れるのか?」
「寝れる寝れる!」
何故か楽しそうなマルスに、アイクはやれやれと言った風に頭を掻いた。
「分かった。寝たら歌う…」
「ホント!?」
「……かもしれん」
「えーー!?」
「分かった分かった! 歌う、歌ってやる」
もはやヤケになりかけのアイクだったが、
「ホントに?」
なんて言いながら嬉しそうに笑うマルスを見ては、嫌とは言い出せず。
「……あぁ、歌ってやる。だから寝ろ」
言ってマルスの頭に手をやり、そのまま膝へと押し倒す。
そうして『早く寝ろ』とばかりに髪をゆっくりと撫でる。
マルスもまたそれに従い、身体を横にして寝やすい位置に頭を動かし、眠くも無いのに目を閉じた。
本当はアイクだって分かっているのだ。
マルスがもう目を閉じてもなかなか寝つけないであろうことは。
それでもアイクは、瞳を閉じたマルスの髪を何度も何度も、無骨な手に似合わぬ優しい動きで撫でていた。
ふいに、マルスは何かが頬をぶにっと押すのを感じた。
多分アイクの指だろう。
「マルス、寝たか?」
やはりというか、確かめのための動きだ。
呼びかけるアイクに、マルスはもちろん答えない。
思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、なんとか無言を貫き通す。
「おい、顔が緩んでるぞ……」
それにも無言で答える。
何度かの問いに口を開かずにいると、しばらくの沈黙ののちアイクが深呼吸する音が聞こえた。
そんなに緊張するだろうか、とマルスは少しだけ考えてみた。
もし自分が、相手が寝ていると思って歌っていて、でも相手はばっちりと聞いていて――
想像して、確かに恥ずかしいものだなと思った。
けれどもアイクの歌を聞いていたいというのもまた本音であって。
頭の中で色々と考えていたら、さっきよりも小さい声色でだが歌が聞こえてきた。
たどたどしく紡がれる、穏やかな譜。
目を開けて顔を見つめたいけど、そんなことをしたら二度と歌ってくれなくなるに違いない。
僅かばかり残念な気持ちになりながら、マルスはその低い歌声に耳を傾け続けていた。
+ + + + +
眼前を埋め尽くす草原の中、少年は誰かに後ろから抱かれながら太い幹を持つ巨木にもたれている。
少年は木漏れ日の淡い光を見上げながら、どこからともなく聞こえてくる低い旋律に耳を傾けていた。
それは歌と言うには詩が無く、確かな譜があるのか疑問なほど不安定な音。
決して綺麗とはいえない、とぎれとぎれの歌なのに、少年にはとても心地よい音に聞こえていた。
ふと、自分はこの歌を紡ぐ低い声が好きなのだと少年は気付いた。
低く、暖かく、優しいこの声が好きなのだ、と。
この声の主は一体誰だろう。
父の声にしては高い。
傍仕えのものでもない気がする。
では一体誰なのだろう。
少年は少し身を乗り出して、自分を後ろから抱きしめている誰かを振り返り見る。
木漏れ日の眩しさにだろうか、瞳を閉じた青年がそこにいた。
光に照らされている紺色の髪が酷く目に焼き付く。
かすかに動いている口元に、この歌声の主が彼なのだと分かった。
アイク。
呼びかけに、彼はふと旋律を止めて瞳を開けた。
少年を見つめる瞳は、髪と同じような深い青色をしている。
良い歌だね。
そう少年が微笑みながら言うと、彼もまた口元にかすかな笑みを浮かべた。
+ + + + +
夢の中にまで響いていると知ったら、きっと彼は、今度こそ恥ずかしがって歌ってくれないかもしれない。
だから黙っていよう。
僕がキミの夢を見ていたなんて。
キミが僕の夢でも、歌ってくれていたなんて。
* * * *
ちょっとしたヨタ話……アイクのお母さんの子守歌って、ただの子守歌じゃないんですよね。
だからただの「子守歌」として扱うかどうしようかちょっと迷ったんですが……
でも色々な意味合いを持つ歌だとしても、アイクにしたら「お母さんが歌ってくれていた歌」というイメージが一番じゃないかなぁと思って。
問題は、アイクが歌えるのかどうか謎な部分ですが……(笑)
個人的には「なんとなくどうでもいい時にふっと出てしまう」みたいな感じが好きです。
この話のアイクも、まぁ適当に紙眺めて、膝元にはマルスがいて。
ちょっと気がゆるんだので歌ってしまってた、というイメージです。
* * * *