【 それはやわらかで 】

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「マルス、戻ったぞ」

メタナイトとの手合わせを終えて部屋に戻ったアイクが最初に目にしたのは、なにやら眉をしかめながら鏡と向き合っているマルスの姿。

「……どうした?」

いくら顔の造りが整っているという彼でも、別に化粧をするような趣味は無かったし、ピーチ姫などに着せ替え人形にされそうになっても全力ダッシュで逃げまくり、事無きを得ようとするような人間だ。
ましてやナルシストというわけでもないはずだが。

「あーやー、お帰り、アイク」

そうは言うものの、彼の視線は鏡から動かない。
一体なんだと訝しげに様子を眺めていたアイクだったが、ふとあることに気がついた。

「口、どうかしたのか?」

彼の指先が自身の唇をしきりになぞっているのだ。
良く見れば、彼の視線もそこに注がれているようだが。

「んー、なんか切れちゃったみたいで」
「怪我か?」
「違うよ。荒れたみたい」

そういう彼の傍により、鏡とにらみ合う顔をのぞき見る。
確かに唇には少し赤くなっている部分が見受けられるが、それよりもアイクは違う部分に目がいってしまった。
どうにも彼の唇が濡れて艶やかになっているように見えたのだ。

「……どうした?」
「何が?」
「いや、口」
「だから切れたって…」
「そうじゃなくてだな、なんかこう……」

濡れて見える、なんて口に出せば彼が怒り出すのではと感じ、アイクはそれ以上をどう言えばいいか迷ってしまった。
唇を指したまま口ごもるアイクに、マルスは「あぁ」と言って手元に転がっていた筒を一つ摘み上げる。

「なんか変に見えるのはクリーム塗ったからだと思うよ」
「クリーム?」
「リップクリーム。ピーチ姫に頼んで余ってたシンプルなのを貰ったんだ」

差し出すマルスからそれを受け取り、蓋だと思う部分をはずしてみる。
ふと清涼感のある香りが鼻をくすぐっていく。
マルスの言う通り、姫達がつけるような色鮮やかなものではないようだ。

「危うく女物渡されそうになって焦っちゃったよ。『いよいよメイクさせてくれますのね!?』なんてつかまりそうにもなったしさ」
「災難だったな」
「でもこういうのは僕もよくわからないし。一番知恵があるのは姫達だからしょうがないんだけどね」

苦笑するマルスに釣られてアイクもまた笑う。
と、マルスがアイクを見上げて手を一つ、ポンとたたいた。

「アイクも使ってみれば?」
「は? 俺が?」
「うん」
「俺が使ってもしょうがないだろう」
「別に口紅じゃないから誰が使っても、なんて決まりないけど」
「そうじゃなくて、気持ち悪いだろうが」
「どうして? 僕も使ってるじゃん」
「いや、あのだな……」

見た目の印象ってのがあるだろう、と答えたかったのだが、そう言えば多分マルスは「女みたいな顔ですみませんね」とか言っていじけるに違いない。
だが、おそらく言いたいことが分かってしまったのであろうマルスはわずかばかりに目を細めた後、すっくと立ち上がってアイクと同じ視線の高さで見つめてきた。

「要するに医療品みたいなもんだからさ。そこまで大げさじゃないけど」

言いながらマルスはアイクの唇を指先でなぞり、彼が持っていたリップを返してもらう。

「僕も荒れとか気にするほうじゃないけど、切れてるよりはいいだろ?」
「それはそうだが……」
「それじゃあ一蓮托生ってことで。こっち向いて」

いやにニコニコと楽しそうなマルスに、アイクはやれしょうがないかと従うことにした。
マルスの指がアイクの顎をなぞり、少し上向きにさせる。
まるでキスでもするかのようなその体制に、アイクは普段とは逆の立場に少しむず痒さを覚えた。

「なんか変な気分だ」
「何が?」
「逆だから」
「ん……あ、そういうこと」

わずかに頬を赤くしたマルスだったが、それはそれだと横に置いておくことにしたのか、すぐに顔色を戻す。

「まぁそれはいいから。はい、おとなしく口閉じて」
「ん」

言われるがまま口をふさぐと、少しだけ近づいたマルスがクリームを握りなおすのが見えた。

「いくよー……っと、これじゃやりにくいか。やっぱりちょっと口開いて」
「ん? こうか?」

再び言われるがままに口を開くと、何を見たのかマルスが一瞬目を見開き、次には不意打ちだとばかりに噴出すではないか。
顔を横に向けて笑いをこらえる彼に、アイクはいささか不満そうに眉を潜めて声をかけた。

「おい?」
「ふふっ、ごめんごめん。ちょーっとだけ間抜け面だなぁ、なんて思った」
「ずいぶんだな」
「だからごめんってば。はい、改めて口開けて。少しだけでいいから」

言われ、わずかに唇同士を離すぐらいに口を開けてみる。
アイクは先ほどの「間抜け面」という言葉がひっかかり、目を閉じてマルスがクリームを塗り終わるのを待つことにした。
唇に少し冷たい感触が触れたかと思うと、ゆっくりとそれが左右に動いて言葉通り塗っているというのが分かった。

「はい、終了」

言いながらマルスは指の腹でアイクの唇をなぞり、クリームをなじませた。
と、塗り終わるや否や目を開け、すぐさま自分の指で唇に触れようとするアイクの手を慌てて止める。

「取れるって」
「なんかスースーするぞ」
「そういうやつだからだよ。甘いったる匂いがするより良いだろ? あ、最後にこうやってなじませて」

言うと同時に自分の唇を指差しながら、マルスは上下を合わせるように動かす。
同じようにしてみると、何かを塗った唇の慣れない感触にアイクは妙な気分になる。

「なんか妙な感じだ」
「まぁ普通は使わないし、僕らの世界じゃ男向けのこういうものなんてないからね」

パチンとクリームの蓋を閉めながら、マルスはアイクの唇を眺めながら続けた。

「でも、あればあるで便利だよね」
「それはそうだが……塗って利点はあるのか?」
「利点? そうだなぁ……やわらかくなる、かな?」
「やわらかく?」
「うん、そういうものだし。荒れてがさがさ、切れて痛いよりマシでしょ?」
「むぅ……本当か試していいか?」
「え……んぅっ?」

言うが早く、先ほどとは逆にアイクの指先がマルスの顎をなぞり、隙をついて唇を重ねる。
ただ重ね合わせるだけのものだったが、啄ばむように何度か音を立てて吸われ、マルスは頬が熱くなるのを自覚した。
お互いクリームを塗っていたためか、普段よりもやわらかく感じるのは気のせいだろうか。

「ん、ちょっ…何するんだよっ」

少しの間を置いてからアイクの胸板を押し離し、マルスは手で口を押さえながら抗議の声を上げた。
だが一方のアイクはいたって平然とした表情で、

「いや、やわらかくなるというからどうかと思って……」
「実践するな! というかいきなりキスするな!」
「するぞ、と言えばいいのか?」
「そうじゃない! まったくもう……」
「まぁやわらかくなるというのは事実だな」
「あぁ、それはそうかもね」

やれやれとため息をつき、適当に答えるマルスの手からクリームを取り、アイクは聞いた。

「で、お前はどっちがいい?」
「何がですか? アイクさん」
「塗ったキスとそうでないキス」

(何を聞いてるんでしょうかこの人は)

マルスは自分の顔が一気に赤くなるのを感じながら、勢いよくそっぽを向く。

「そ、そんなのどっちも一緒だ!」
「そうか? 俺はあった方がいいかと…」
「あーもー、いちいち僕に聞くなー!」

真っ赤になった顔を見せまいと、マルスはアイクとは向き合わずにそう叫んで、彼の手の中のクリームを奪い取る。

「これはそういう使い道じゃないんだからな、まったくもう」

なんて言いながらも、やわらかいなと感じていたのは自分も同じだったわけで。

(今度からこれ、使いにくいじゃないか……)

こんなつもりで貰ったわけじゃないのにと、内心早くなる鼓動にマルスはため息をつくしかなかった。





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